五輪ピックスも終え、
なんか連載漫画が終わったような脱力感、
って程のモノでもないが、キリンチャレンジカップ?
などを、ついつい観戦。
ナショナリズム。
なんてモノを意識し出したのはつい最近のような。
国家の代表である選ばれた「選手」達を応援する事に、
「誇り」の様な何かを感じて。
その思いの理由を辿ると、必然か偶然か、は、わからないが、
歴史、を知る事になったのね、俺の場合。
その歴史とは、日本と言う国の歴史が入り口だが、
必然と我が高野家の歴史に辿り着く。
「公は個の集合である」と誰かが言ってたかな。
すると、「個は公の基礎である」と知る。
であるからすると、個の育成手段によっては、
公は、良い団体にも、悪い集団にもなりうる。
個対個のレベルならば、話し合いも殴り合いも愛し合いだ。
が、公対公のレベルにもなると、話し合いまでの席が遠い。
もし決裂する外交ならば、半世紀前なら即刻WAR。
浅い歴史の隣国が実行するナショナリズムはやはり浅く、
深い歴史の我が国のナショナリズムは遠慮も深まる一方。
戦後67年の今日、いたずらに利己政治的プロパガンダを展開する
複数隣国に、いたずらな稚拙を見る。
決して、君の事が嫌いなんじゃない。
自分の先祖を愛しているだけなんだ。
そこの君、教科書は破り捨てなさい。
生きてるうちに話を聞こう。
歴史とは伝承されるんだ。
そういえば、前述の「選手」。
選ばれた人?いや、選び抜かれた人。
いや、そのたった1つの権利を努力の末に勝ち取った人。
選手。
70億人とも言われてる世界人口。
オリンピックで金メダルってその頂点。
凄いよなあ。
銀でも銅でも8位でも凄いよなあ。
50位でも凄いよなあ。
俺はもし、男子柔道で競ったら70億人中の何番目なんだろう?
「選手」にもっと尊敬を。
それもきっとナショナリズムの基礎なんだろう。
No. 666。